金沢文化スポーツコミッション

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STORY

金沢が生んだ東京オリンピック選手団長

1964 東京オリンピック 日本選手団団長

東京オリンピック入場行進(騎手の後列左側が大島鎌吉)

1964年、日本が初めて開催したオリンピック・東京大会。その選手団団長を務めた大島鎌吉は、金沢市出身です。
東京オリンピックを1年半後に控えた1963年4月、大島は「選手強化対策副本部長」に任命され、『選手強化五ヶ年計画』を策定しました。それまでの日本スポーツ強化の欠点を分析し、スポーツに「科学」を導入したトレーニングを推進します。さらに、選手の発掘と育成、専任のコーチ制度、各競技で世界の著名なコーチや学者を次々と招聘し選手を強化しました。現在では当たり前のように感じられるこうした選手の育成強化策は、当時の日本では大変画期的なものでした。
そして、日本の「金メダル獲得目標数は15個」と宣言し周囲を驚かせます。現在の山下泰裕JOC会長は「2020東京オリンピックの日本の金メダルは30個」と宣言していますが、オリンピック以外にも世界選手権や世界ランキングがある現在とは違って、当時、メダル獲得宣言をするには緻密な分析がなければできなかったことでしょう。
大島は410名の日本選手団団長として選手団を鼓舞し、見事、過去最高「16個」の金メダルを日本にもたらし、周囲を驚かせました。

大火傷を負いながらのロス五輪・銅メダル

大島鎌吉は、陸上・三段跳の選手としても世界一でした。1932年、オリンピック・ロサンゼルス大会に臨んだとき、三段跳は日本のお家芸で、南部忠平、織田幹雄と共に金銀銅メダル独占も夢ではありませんでした。ところが、本番4日前に、選手村宿舎のガス風呂が爆発し、大島は大火傷を負ってしまいます。とても競技できる状態ではなかったにも関わらず、大島は体中をぐるぐる巻きにした包帯を取ってぶっつけ本番で決勝に臨み、最終6回目の跳躍で15m12を記録し、銅メダルに輝きました。なお現在この時の銅メダルは残っていません。戦時中、夫人が軍に供出してしまったそうです。
2年後の日米対抗陸上競技大会で、大島は銅メダルの悔しさをバネに、見事、15m82という当時の世界記録を打ち立てました。

“日本人唯一のオリンピック平和賞受賞者”

金沢市小立野の経王寺、墓石の隣に建つ顕彰碑

1985年3月30日、大島鎌吉は77歳で永眠。法名は「雄躍院芳薫日鎌居士」で、墓は金沢市小立野の経王寺にあります。
2019年12月、大島家の親族によって、墓の横に顕彰碑が建てられました。顕彰碑には、「日本人唯一のオリンピック平和賞受賞者 大島鎌吉氏眠る」と刻まれ、1982年にIOCから授与された栄誉を讃えています。
日本スポーツ界にとって、数々の偉業を刻んできた大島鎌吉は、生地金沢の高台から、2021年東京オリンピックの成功を見守ってくれているのかもしれません。

出典 : 大島鎌吉スポーツ文化金沢研究会|1964年東京オリンピック成功を支えた大島鎌吉の偉業


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